Crystalmemento

夜 / 骨壷 / 境界線

天国前夜

偽物になって息を吹き返した
兎に憧れた少女から
甘い猛毒を少し
治療するのは得意なんだ
涙はもう予約してあって
傷跡がかわいい
生きてる間だけ
粘膜に響いて
針のように刺さった
鉛筆で描いた花
勝手にはじまった夏
夢のひとかけら
汚れた笑顔
天国前夜
闇に灯す火
その永遠のなかへ

夏風邪宇宙

羊をずっと数えてる。
いつ本当に眠れるのだろう。

時計が集団自殺して長い生き方はもういらないんだと気づいた時の勢いで知らない女の手を引いて見つけた単発の夜に花火と人生を交換して一瞬の空になると本当の夜がそこから始まって、おやすみとさよならの間の明るい真夜中が続きのある物語のように優しくなった。それは宇宙がなくなった後に生まれた子供のように美しかったのでぼくが目覚めたかったのはこの朝だったのだと感じた。

時間だけが生きている変わらない世界で、世の中の大事なことだけを知らないような気がするのは、本当に大事なことなんてものがどこにもないからだ。もうだれかうみをつくってくれよ。

だけどまた風邪をひいてしまったし前髪は邪魔だから横になって目を閉じたのに、目の裏に保管してあった風景に含まれる素粒子のいくつかにきみの色が着いていてまだその姿が見えるから、再会のあとにさよならがあることを喜んで、処方箋代わりにその場限りの悲しみを提出して、それでいいやって

そんなことだから yes も no も拒否して手遅れの道をいくのだ。

羊をずっと数えてる。
代わりにはならないってはやく気がつけばよかった。

症例102:自由の女神

「約束がなんの役に立つの?」

 そう言って女神になる前の彼女は現れた。結婚式の前日になって婚約者がいなくなったのだという。そしてここは天国。つまり彼女は他界した彼を追いかけてここまで来た。

「約束って、信頼関係のはじまり。第一手だ」
「信頼関係ってなに? 信じてないからわざわざ約束なんて言って圧力かけるんでしょ。忘れんなよって」
「関係ってはじめからそういうものだよ。そのうち約束しないでもやってくれることを期待したり、言わないでも分かってくれることを期待したりしはじめる」
「もういい。聞きたくない。彼はどこ? いるのは分かってるんだから」
「いないよ。ここは天国だからね。個人はいないんだ。だから争いが起きない。気持ちがすれ違うこともない。人も草木もけだものも同じ。存在するのは全体性だけだ。何にでもなれる代わりに個人としての自我はなくなる。ここでは鳥がしゃべるし、花が歌う」
「嘘ばっか。わたしとあんたは別人じゃない」
「まだきみは入国していない」
「くだらない。天国も役に立たないのね。なんであるの?」

 彼女は落ちていた聖書を蹴り飛ばした。蹴った勢いで地面を転がるそれを追いかけて、今度は無造作に開かれたページに火をつけた。<人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません>という文字列がまず燃えた。火はすぐに広がった。天国はよく燃えた。あらゆる約束事は灰になっていった。鳥たちの懺悔も花たちの賛美歌も途絶えた時、彼女はついに女神になった。ぼくは全体性を免れて、元の自分に戻ることができた。そして多次元的な解釈でいうと同じ座標空間にある地上へと帰ってきた。気付いた時には時間とか距離とか法則めいたものをぜんぶ無視して再び花嫁になった女神が隣で眠っていた。起こさないようにそっとベッドから出る。キッチンに水を飲みに行こうとしてそのままコンビニまで寄り道して戻ってくると、彼女はちょうど目を覚ました。

「ちょっとこれ持ってて」
 買ってきたアイスクリームを彼女に持たせる。うん、似合う。
「なにこれ」
「<結婚式当日の朝何してましたか?> と聞かれて <アイスクリームを持っていました> って答えるの、なんかよくない?」
「いみわかんない」
「もう約束じゃないってこと」
 それが本当にしたいことなら約束ってほんと意味ないよなと思いながら、アイスを嬉しそうに頬張る彼女の横顔を眺める。
「え、なに? きいてなかった」
「おいしそうだねって言ったの」
「うん、おいしい。ところで自由の女神がアイス持ってるのってなんで?」
 ほら、と言って彼女は食べかけのアイスを掲げる。
「あれはたいまつだよ。天国を燃やすやつ」
「あ、さっきそんな夢見たような気がする」


*本作品は2015年9月9日に「失夢症に関する症例集」に投稿したものです。

ガラス張りの彼女に

運命に向けてあの人を投影する。影だけが存在する夜。あの子が羨ましいのは偽物の世界の住人になったからです。45億年前に出口はすべて消滅してしまいました。運命のそのあとに足を踏み入れた者は、賛美歌を破壊するしかなくなる。灰の薔薇の満ち足りた空想。夢とは上昇する鶏の鳴き声です。これから失うものをぼくはまだ持っていて、もう一度忘れたいすべてをぼくはまだ持っている。ひたすらきみの存在を叩きつづける信仰のない雨になろう。虹を殺してきみの幽霊にはじめましてとお別れの挨拶をしよう。目と目の間で交わされる手紙に意味よりも多くのメッセージを込めて。

きみ自身が原因不明の病なのです。

銀河泥棒

宇宙のどこかでひっそりと咲く花。それが発する音を聞いた。それは悲しげな未来に薫るマゾヒスト的な祈りとなって、ことばとなって、ここに記された。語られた嘘でさえ理解してしまえば何かの要約となってしまう。ずっと生きているきみの幽霊はことばの裏側に棲んで、意味を操っている。

好きなものは好き。嫌いなものは嫌い。

それだけがすべてである退屈しのぎに全人類はたぶらかされる。日常を切開する手術としての性現象を破壊的に盛り上げることで一瞬だけ別の世界へ逃避する。理解は恍惚を遠ざけ、未知は恐怖を照射する。

「はじまりだけ。はじまりだけが夢なのです」

これもどうせすぐ過去になる。だからいま水たまりに金魚すくいをしている。この視界のページをめくると、そこから悪霊が飛び去る。

蛍光灯に星を集めて明滅する夜の宗教。
魔法はまるで酸素のように視界のなかで光にかわっている。