Crystalmemento

夜 / 骨壷 / 境界線

症例102:自由の女神

「約束がなんの役に立つの?」

 そう言って女神になる前の彼女は現れた。結婚式の前日になって婚約者がいなくなったのだという。そしてここは天国。つまり彼女は他界した彼を追いかけてここまで来た。

「約束って、信頼関係のはじまり。第一手だ」
「信頼関係ってなに? 信じてないからわざわざ約束なんて言って圧力かけるんでしょ。忘れんなよって」
「関係ってはじめからそういうものだよ。そのうち約束しないでもやってくれることを期待したり、言わないでも分かってくれることを期待したりしはじめる」
「もういい。聞きたくない。彼はどこ? いるのは分かってるんだから」
「いないよ。ここは天国だからね。個人はいないんだ。だから争いが起きない。気持ちがすれ違うこともない。人も草木もけだものも同じ。存在するのは全体性だけだ。何にでもなれる代わりに個人としての自我はなくなる。ここでは鳥がしゃべるし、花が歌う」
「嘘ばっか。わたしとあんたは別人じゃない」
「まだきみは入国していない」
「くだらない。天国も役に立たないのね。なんであるの?」

 彼女は落ちていた聖書を蹴り飛ばした。蹴った勢いで地面を転がるそれを追いかけて、今度は無造作に開かれたページに火をつけた。<人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません>という文字列がまず燃えた。火はすぐに広がった。天国はよく燃えた。あらゆる約束事は灰になっていった。鳥たちの懺悔も花たちの賛美歌も途絶えた時、彼女はついに女神になった。ぼくは全体性を免れて、元の自分に戻ることができた。そして多次元的な解釈でいうと同じ座標空間にある地上へと帰ってきた。気付いた時には時間とか距離とか法則めいたものをぜんぶ無視して再び花嫁になった女神が隣で眠っていた。起こさないようにそっとベッドから出る。キッチンに水を飲みに行こうとしてそのままコンビニまで寄り道して戻ってくると、彼女はちょうど目を覚ました。

「ちょっとこれ持ってて」
 買ってきたアイスクリームを彼女に持たせる。うん、似合う。
「なにこれ」
「<結婚式当日の朝何してましたか?> と聞かれて <アイスクリームを持っていました> って答えるの、なんかよくない?」
「いみわかんない」
「もう約束じゃないってこと」
 それが本当にしたいことなら約束ってほんと意味ないよなと思いながら、アイスを嬉しそうに頬張る彼女の横顔を眺める。
「え、なに? きいてなかった」
「おいしそうだねって言ったの」
「うん、おいしい。ところで自由の女神がアイス持ってるのってなんで?」
 ほら、と言って彼女は食べかけのアイスを掲げる。
「あれはたいまつだよ。天国を燃やすやつ」
「あ、さっきそんな夢見たような気がする」


*本作品は2015年9月9日に「失夢症に関する症例集」に投稿したものです。