Crystalmemento

夜 / 骨壷 / 境界線

#007

境界線があった。それは固い線だった。いつしかそれは灰色になり、しまいには白くなった。線は見えなくなった。すべて消えてしまった。頼れるものはなにもなかった。そこに悪魔が現れた。それで充分だった。魂を売った。身体は買い取ってくれなかった。少しして線が浮かび上がってきた。線がはっきりするにつれて再び他者が現れるようになった。無ではなくなった。人がいた。犬がいた。猫がいた。朝には太陽が昇った。すべてが元どおりになった。ただしひとつだけ違っていた。線が自由につくれるようになっていた。ぼくは無限に線を引いた。すべて自分を中心に交差させた。それだけでなんでもできた。なんでも手に入った。悪魔は魂と引き換えに自由をくれた。しかしあるとき気がついた。ここにあるものはすべて偽物だった。線の引き方ひとつで真実は虚偽になった。意味は無意味になった。価値は無価値になった。それはぼく自身でさえ免れることができなかった。悪魔は毒を仕込んでいた。ぼくは偽物だった。それでも線を引きつづけた。その間だけは自分が生きているように思えた。本物だと思えた。やがて悪魔に対して線を引くことを思いついた。すぐに実行した。以前のようにすべて消えてしまうかと思った。しかし消え去ることはなかった。悪魔は偽物になった。その他の偽物もすべて偽物のまま存在していた。確かなものはなにもなかった。それらが偽物なのを承知でぼくは信じることを決意した。四次元の知覚、古代ギリシアの女神エリス、チェスで必ず勝つ方法。本物がないことは知っていた。だから何を信じてもよかった。信じてみるとだんだんそれが確からしく思えてきた。信じるのは気持ちのいいことだった。偽物だと知っていても気持ちよかった。ぼくは信じた。信じるだけではなかった。自ら偽物を創りだした。いくつも創りだした。創られたものは完成する瞬間に意味を蒸発させた。そのたびに結び目がほどけた。オブジェは崩壊した。見ることも触れることも叶わなくなった。そうやって偽物であることを突きつけてきた。それを何度も見た。そのはずだった。見るべきものは何も見えていなかった。祈りに目を覆われていた。気づいてみればそこが四次元との接点だった。エリスは実在した。盤上に起こりうるすべてが見えた。未知の知覚がこれまでの記憶に触れながら疾走した。過去のすべてが結びついて発光した。答え合わせのような明滅。それは鮮やかな本物だった。もはや言い逃れはできない。ぼくも一個の創られたオブジェだった。自覚はほかのすべてに遅刻してやってきた。それがぼくの完成だった。結び目はほどける。崩壊は思ったよりも短かった。そして思ったよりも長かった。それは一瞬だった。すべてが分解された。次の瞬間には大部分が元に戻っていた。それが繰り返された。欠落が目立つようになると穏やかな気持ちになった。そこからの再構成は一気に弱々しいものになった。そして降り積もる無音。永久に、といえる唯一の場面としての消失。ぼくは偽物だった。他の形ではあり得ないオリジナルの偽物だった。