クリスタルメメント

詩を書きます。

#008

匿名の毎日です。ぼくがぼくになるために必要なものはあと何があるかな。手に入れれば入れるほど足りなくなって、なんでも食べ尽くす怪獣の器だ。誰かのための明日はぼくの白紙を彩らない。鉄でできた街。生命のない花。名前は標的のように悪意の目に射られる。被害感情のアイスピックで装飾を剥がせばここは生と死の庭だ。底なしの沼にはまり込んでいたんだ。天から垂れ下がるそれぞれの物語へ手を伸ばして、ぼくらは傷つけ合うための生き物でした。壁に埋められた彼女の左目がいまも血の色をした夢を見ている。

#007

境界線があった。それは固い線だった。いつしかそれは灰色になり、しまいには白くなった。線は見えなくなった。すべて消えてしまった。頼れるものはなにもなかった。そこに悪魔が現れた。それで充分だった。魂を売った。身体は買い取ってくれなかった。少しして線が浮かび上がってきた。線がはっきりするにつれて再び他者が現れるようになった。無ではなくなった。人がいた。犬がいた。猫がいた。朝には太陽が昇った。すべてが元どおりになった。ただしひとつだけ違っていた。線が自由につくれるようになっていた。ぼくは無限に線を引いた。すべて自分を中心に交差させた。それだけでなんでもできた。なんでも手に入った。悪魔は魂と引き換えに自由をくれた。しかしあるとき気がついた。ここにあるものはすべて偽物だった。線の引き方ひとつで真実は虚偽になった。意味は無意味になった。価値は無価値になった。それはぼく自身でさえ免れることができなかった。悪魔は毒を仕込んでいた。ぼくは偽物だった。それでも線を引きつづけた。その間だけは自分が生きているように思えた。本物だと思えた。やがて悪魔に対して線を引くことを思いついた。すぐに実行した。以前のようにすべて消えてしまうかと思った。しかし消え去ることはなかった。悪魔は偽物になった。その他の偽物もすべて偽物のまま存在していた。確かなものはなにもなかった。それらが偽物なのを承知でぼくは信じることを決意した。四次元の知覚、古代ギリシアの女神エリス、チェスで必ず勝つ方法。本物がないことは知っていた。だから何を信じてもよかった。信じてみるとだんだんそれが確からしく思えてきた。信じるのは気持ちのいいことだった。偽物だと知っていても気持ちよかった。ぼくは信じた。信じるだけではなかった。自ら偽物を創りだした。いくつも創りだした。創られたものは完成する瞬間に意味を蒸発させた。そのたびに結び目がほどけた。オブジェは崩壊した。見ることも触れることも叶わなくなった。そうやって偽物であることを突きつけてきた。それを何度も見た。そのはずだった。見るべきものは何も見えていなかった。祈りに目を覆われていた。気づいてみればそこが四次元との接点だった。エリスは実在した。盤上に起こりうるすべてが見えた。未知の知覚がこれまでの記憶に触れながら疾走した。過去のすべてが結びついて発光した。答え合わせのような明滅。それは鮮やかな本物だった。もはや言い逃れはできない。ぼくも一個の創られたオブジェだった。自覚はほかのすべてに遅刻してやってきた。それがぼくの完成だった。結び目はほどける。崩壊は思ったよりも短かった。そして思ったよりも長かった。それは一瞬だった。すべてが分解された。次の瞬間には大部分が元に戻っていた。それが繰り返された。欠落が目立つようになると穏やかな気持ちになった。そこからの再構成は一気に弱々しいものになった。そして降り積もる無音。永久に、といえる唯一の場面としての消失。ぼくは偽物だった。他の形ではあり得ないオリジナルの偽物だった。

#006

指を丁寧に開いて秘められた末梢神経が空気に触れ始める頃、子宮内部から地獄の季節を聞いている精神が八月のバス停で降りた。精神とは数えられるものではない。しかし店員の目に見えるのは人間一人であることは間違いないのだから、何のためらいもなく喫茶店に入る。わたしはこの店内ではまぎれもなく一名様だ。名前などはいくらでもあるが、言語はただの通貨であって、お互いが同じ間違え方をしているならそれはその場では有効なのだ。残り時間が少ない。わたしは二度とこの街を出ないだろう。そこにある光を手にとってわたしたちはある限られた部屋でのみ素直になれるお互いの心を放牧した。嘘の鳩が歩き、嘘の感情が泣いている。なにも出来ないから嘘をつくしかなかった。「あなたの中の犠牲者を殺してしまって、それからはわたしの中に残った血液を洗い流すだけです」「きみが死ぬのはとても正常なことだよ」生きている幽霊が蝶の脚を引っ張ると古くなった壁がバラバラと剥がれ世界の輪郭が崩れ落ちると舞台裏から髭の男が現れた。「幽霊にならない女の子は世界の運営を邪魔しないからね。邪魔しなかったからね。寿命よりだいぶ早い腐敗で許してあげよう」何もわからないけど腐っていくのが気持ちよかった。命はこうやって使い果していくものなのだと思った。そこに鋭い光が充満した。いままでのすべてが夢だったかと思うほど強烈な光だった。素敵な獣への帰省の折だったわたしは全身で泣き叫んでいた。とはいえ、そうと知らされたのは数年経った後だ。目が慣れて様子が分かってくるにつれてその状況のあまりの恐ろしさにわたしはいろいろなことを忘れてしまっていた。そこにはわたしを覗き込む醜悪な顔があった。わたしは無力だった。並べられている冷たい器具の使い道は、そこに蠢いている大きな生き物に委ねられていた。

#005

教壇の机の上にブラウン管の古いテレビが置いてある。教室の中は無人だった。テレビにはいつかのこどもたちが入学して卒業していく姿が繰り返し映されている。こどもの緊張した面持ち。保護者の心配そうな顔。嬉しそうな顔。友人との別れを惜しむ声。幸福そうな人々。しかし幸福はない。本当のことを言えば教壇もない。机もない。テレビもない。教室もない。いつかもない。こどもたちもない。入学も卒業もない。それを見ている目もない。幸福はない。幸福そうな人だけがある。幽霊だ。ぼくたちの身体を使った幽霊は妊娠をそこに捧げたんだ。

#004

破滅の日。あしたの練習を続けてここまできました。あした、あした、あしたばかりが溢れて遺書が見えないくらいだ。宛名は過去の日付にしておくよ。結局きみたちがなんだったのか何もわからないままだったな。だけどそれはもういい。終わりの鐘は聴こえているんだ。もうだれでもいい。ぼくたちはだれでもなかった。あしたではないぼくたちを鳴らそう。もうこれで最後だよ。ぼくたちは途絶えることのない通話だったんだ。

#003

きみたちはぜんぶ夢だから書かないと忘れてしまうね。まだ水面下の戯れだ。いつか確かなものに発見されてしまうかなあ。でもそんなものはきっとないんだ。ぼくはずっといなかった、きみもずっといなかった。いないよ、わたしはどこにもいないよ。ぼくたちは死への憧れだったな。戯れだ。見かけしかないんだ。地獄はずっとたべものの形をしていたよ。愛だね。

#002

嘘をつき続ける手紙の末尾が決まらないせいでぼくたちはまだ生きている。真っ白な海。ブルーブラックの波が一定の複雑さで意味を帯びる。そこに真実は含まれるだろうか。嘘でなければ感情はないのだ。鳥の足跡のように途切れる結末にぼくは関与しない。もう絶対に許さないからね。